本伝寺の沿革

 建永2年(1207)、親鸞(1173~1262)越後流罪時に荻生村金津にあった(渕上家)祖先の家に立ち寄られて、その教えを受けた祖先は、親鸞から渕上一乗坊という称号を賜って坊舎を建てたことが始まりと伝えられています。

 

 本願寺東西分立の発端となった石山合戦(永禄11年(1568)~天正8年(1580)。今の大阪城辺りにあった石山本願寺(本願寺第8代蓮如(1415~1499)が明応5年(1496)によって坊舎が建立されたのが始まり)を織田信長(1534~1582)が天下統一をはかるため攻め立て、11年間にもおよぶ争い)和睦を決意した本願寺第11代法主(現在は門首と呼ぶ)顕如(1543~1592)没後の後継者問題が、長男教如(1558~1614)と三男准如(1577~1631)の対立となり門徒僧侶も二派に分かれて争いました。やがて本願寺は准如が継承し、教如は徳川家康の援助を受けて東本願寺を創立されました(1602)。この争いの時、本伝寺は教如の東側についたために、荻生にあった坊舎は准如についた西側の者によって焼かれ、しばらくの間は荻生地内の大門(今の国道8号線と産業道路の交差点付近)に隠遁しなければなりませんでした。

 やがて東本願寺が確立するに至って、慶長13年(1608)、教如から蓮如の御影を賜って、沓掛の現在地に堂宇を建立しました。この堂宇は一説によれば、能登から移築したとも伝えられています。

 現在の本堂は、先の本堂の老朽化が激しく、昭和63年(1988)新築工事に着工し、翌平成元年(1989)9月に竣工されたものです。

 右の写真は本伝寺の鐘楼堂です。

 以前は時を知らせる鐘を突いていましたが、現在は法要が勤まる一時間前にのみ突いています。その他は年越しを知らせる初鐘式、3月11日14時46分に発生した東日本大震災の時刻に合わせ勿忘の鐘(忘れることなかれ)を突いています。

 

 梵鐘には次のように刻まれています。

 

供出後五年再鋳造

越中淵上山本傳寺

願主第二十五世釈時丸

施主檀徒等一同

旹昭和二十二年三月

 

正覺大音響流十方

 

高岡鋳物師

老子次右衛門

 供出というのは昭和16年(1941)に公布され、その後昭和18年(1943)に全面改正された「金属類回収令」を意味します。これは日中戦争から太平洋戦争にかけて戦局の悪化と物質不足を補うために定められたもので、寺院の梵鐘も例外ではありませんでした。現在の梵鐘はこの供出より5年後の昭和22年(1947)、当寺の住職であった渕上時丸(釈時丸)と門徒一同の願いと、高岡の鋳物師老子次右衛門の手により再鋳造されたものです。

 梵鐘の中央には「正覺大音響流十方(しょうがくだいおんこうるじっぽう)」という『仏説無量寿経』のことばが記されています。これは「真実への目覚めは、あらゆる場所・人・世界に響き渡っていくような大きな音となる」という意味です。梵鐘はただ時を知らせるに止まらず、真実に暗い者の目を覚まさせるはたらきをも意味しているのですね。 

 

 

 明治11年(1878)9月、明治天皇が北陸御巡幸に際してお休みになる際に、本伝寺を利用されました。(その記念碑が右の写真である)

 当時の様子として、板輿で黒部川を渡られてそのまま立ち寄られたと伝えられており、『明治天皇北陸御巡幸六十周年記念誌』(昭和13年10月富山県発行)には次のように記されています。

  

 午前9時35分(明治11年9月29日)、御板輿にて、沿道空前の拝観老若男女奉迎のうちに本寺に入御あらせられ、御小休後この寺より、再び御馬車に召され、玉輪かつかつ御進みあらせ給うた。

 

本堂裏からの本伝寺外観と、本伝寺から眺める立山連峰です。 (写真は5月撮影)